忙しかった「んです」。

土日の授業はどれもレベルが高いクラス(日本語能力試験2級以上)なので、あまり語彙コントロールのことをを考えなくてもいいのですが、月曜日は初級のクラスが3コマ連続。そのクラスの進度によって、学生が今までどんな単語や文型を勉強しているかを頭に入れながら話さなければなりません。
学生が知らない単語でも、どんどん話してやればいいじゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それでは授業になりません。日本語に囲まれて育つ日本の子供と違って、日本語に触れるのは週に2回のこのクラスだけ、といった学生が多いのです。既習の「わかる」言葉を繰り返し使用し定着させ、毎回少しずつ新しい内容を付け加えていく。初級では何を教えるかよりも、何を教えないか(また、どうして教えないか)ということをきっちり把握していないと、貴重な授業時間が無駄になってしまいます。
例えば初級のクラスでは、先週クラスを休んだ学生に対して「Aさん、先週はどうして来なかったんですか」と聞くことはできないのです。「んです」という形が問題です。これは日本人の日常会話に頻出するものですが、初級の学生にとっては非常にやっかいなものなのです。
まず、「んです」の前に来る動詞は所謂「普通形」でなければなりません。普通形というのは、「来る+んです」「来ない+んです」「来た+んです」「来なかった+んです」という形です。日本人にとっては何の問題もないでしょうが、上記の「来」を「く(る)」「こ(ない)」「き(た)」と自然に読めるためには、「く」「こ」「き」という音を同じ動詞の変化形だと知っておかなければなりません。動詞活用の一覧表を見せるだけなら簡単ですが、基本的な動詞について全ての変化形を生徒自身が使えるようになるまでには、かなりの時間が必要です。『みんなの日本語』などのテキストでは、まず「(所謂)連用形+ます、ません、ました、ませんでした」から導入し、その後少しずついろいろな活用形を学ぶ流れになっています。ですから、「きませんでした」と「こなかった」が頭の中でまだつながっていない学生に対して、「来なかったんですか」と突然聞いても、きょとんとされるだけになってしまいます。
しかし、だからと言って「Aさん、先週はどうして来ませんでしたか」とたずねるのも、ためらわれます。これでは不自然です。いくら習っていないからといっても、教師自身が不自然な日本語を口にするのはまずい。というわけで、「Aさん、先週は来ませんでしたね。どうしてですか」などというふうに言い換えることになります。


さて、この「んです」、学生だけでなく、教師泣かせでもあります。説明が非常に難しい。

  1. 旅行に行きます。
  2. 旅行に行くんです。

日本語学習者に、この二つはどう違うんですかと聞かれたとして、どう答えればいいでしょうか。この仕事を始めたばかりのころは、この「んです」を教える課が嫌でしようがなかった。うまく説明できなかったからです。参考書、教師用指導書などに目を通してみても、なかなか自分が納得できるいい解説が載っていない(当時はインターネットもなかったし、海外では手に入る本も情報も限られていた。大学で日本語教育専攻だったわけでもなかったし)。そして、やっと手に入れたのが、田野村忠温『現代日本語の文法Ⅰ 「のだ」の意味と用法』(ASIN:487088397X)。「んです(のだ)」について、詳しい分析がされた本なのですが、自分にとっては最初の数ページだけで元がとれました。

「雨が降ったのだ」という文の背後には、ことばの形では表現されていないにせよ、「〜は」という主題(例えば、「地面が濡れているのは」という主題)が常に潜んでいる。

つまり、基本は「XはYだ」と同じで、「X:地面が濡れている」のは「Y:雨が降った」のだ。Yに当たる部分が名詞ではなく、「の(ん)」という形式名詞で括られた節になっていると考えればいいのだ! 
上に書いた例文も、「旅行に行くんです」だけで考えるのではなく、発話されていないが、前提、主題になっている部分を補って考えれば簡単です。例えば、「大きい荷物を持っているのは」「来週のクラスに来られないのは」「新しいかばんを買ったのは」……「旅行に行くんです」。後件は前提(主題)の説明部分なのです。
クラスでは「形式名詞がどうたら」というような説明はしません(できません)が、「んです(のだ)」の前提になっている部分、発話されない主題を絵などできちんと提示するようにしてやると、授業がかなりスムーズに進むようになりました。
「どうして先週来なかったんですか」「仕事が忙しかったんです」などのように、授業中に「んです」が使えるようになると、学生とのおしゃべりも自然な日本語の会話に近づいてきます。