「ないです」について

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

先日カミュの『異邦人』を読んでゐて、思はず「うむ」と声が出てしまつた。内容についてではなく、翻訳された日本語の文章に対してだ。この小説の終盤、殺人を犯した主人公ムルソーに対して死刑判決が下された場面。

弁護士は私の手首にその手を載せた。私はもう何も考えてはいなかった。しかし、裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。(p.111)

「ないです」。
実は、非母語話者向けの日本語教科書には、このやうな「(名詞が)ないです」といふ言ひ方は載つてゐないのだ。
『コミュニケーションのための日本語教育文法(asin:4874243347)』に収録されてゐる論文「コミュニケーションに役立つ日本語教育文法」(小林ミナ)から、「否定のていねい形」の表をひく。日本語教科書に出てくるのは、表中の太字(イ形容詞以外は左側)の表現だけだ。

  〜ません 〜ないです
動詞語尾 食べません 食べないです
本動詞 (鉛筆が)ありません (鉛筆が)ないです
(名詞+)ダ (本)ではありません (本)ではないです
(ナ形容詞+)ダ (静か)ではありません (静か)ではないです
イ形容詞 大きくありません 大きくないです



日本語を教へることを仕事としてゐる自分は、半ば意図的に、そして無意識にも「教科書の日本語」を血肉化してしまつてゐるので、教科書にない表現には敏感になつてゐる。もちろん、これら「教科書にない表現」が間違つた用法だなどと言ひたいのではない。自分も日本語ネイティブと話すときは、「行かないですよ」など表の右側にある言葉が口をついて出てくるし、この小林氏の論文には下のやうに非常に興味深い指摘もある。

64時間分の自然談話データ(『女性のことば・職場編』,『男性のことば・職場編』,『名大会話コーパス』)を観察してみると,イ形容詞だけでなくすべての品詞において,「〜ないです」のほうが多く使われていることがわかった。平均すると約70%が「〜ないです」であり,「〜ません」は約30%に過ぎなかった。(p.38)

つまり、教科書で採用されてゐる表現のほうが、実際の言語使用状況からみると、少数派となつてしまつてゐるわけだ。この資料に続いて、小林氏は「〜ないです」はこれから「積極的に導入、練習するべき文法項目と言える」と主張してゐる。もつともである……。


しかし、教へる必要はあつても、初級の学習者に「練習させる」必要はあるだらうかとも考へてしまつた。といふのは、特に「(名詞が)ありません」と「(名詞が)ないです」はニュアンスに違ひがあると思ふからだ。
これは自分の語感なので、他の人からそんなことはないと反論されれば、すぐに撤回する用意はあるのだが、自分は目上の人に対して「ないです」は使へない。やはり、ぶつきらぼうな感じがする。また、テレビなどで若い人が元気な声で「ないです!」とかいふのを聞くとちよつと能天気な感じもする。
それから、このぶつきらぼうな感じから来ると思うのだが、「本当はあるのだけれど、『ない』と言つておきますよ」といふ含みを持たせた表現は、「ありません」より「ないです」を使ふことが多いのではないか。

上司: 何か、言ひたいことがあるのか。
部下: ないです……。/ありません……。

これは言葉よりも態度や声音の問題になつてしまふかな。何とも言へませんね。


まあ、とにかく、「〜ないです」を教へるべきだといふことには賛成だが、教へ方、練習のし方については慎重に考へなければならないな、と思つてゐたところに読んだのが、冒頭の『異邦人』。

裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。

自分は急いでページをめくり直して、ムルソーが「ないです」または「ありません」と発言した場面が他にないかを探した。裁判の場面の中にひとつ見つけた。

最後に、私に対して、何も付け加えることはないかと尋ねられたので、「何もありません。ただ証人には悪い点がないことを申し上げます。私が彼に煙草をすすめたというのは事実です」と答えた。(p.94)

こちらでは「ありません」を使ひ、最後には「ないです」。自分の読みとしては「ありません」は単純な否定だが、最後の「ないです」には、「あるけど、言はない」もしくは「あるけど……」といつた含みがある表現だと思ふ。これは翻訳者(窪田啓作)の意図的なものなのだろうか。意図的だつたら、すごいと思ふし、無意識だとしても、非常に興味深い。原文のフランス語ではどうなつてゐるのだらうか。


コミュニケーションのための日本語教育文法

コミュニケーションのための日本語教育文法

こちら、『コミュニケーションのための日本語教育文法』は日本語教師必読。現在の教科書、教材についての鋭い批判は、現場で教へてきた人にしか書けないもの。時間があれば別にエントリーを書きたい。