「ないです」について
- 作者: カミュ,窪田啓作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1963/07/02
- メディア: 文庫
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弁護士は私の手首にその手を載せた。私はもう何も考えてはいなかった。しかし、裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。(p.111)
「ないです」。
実は、非母語話者向けの日本語教科書には、このやうな「(名詞が)ないです」といふ言ひ方は載つてゐないのだ。
『コミュニケーションのための日本語教育文法(asin:4874243347)』に収録されてゐる論文「コミュニケーションに役立つ日本語教育文法」(小林ミナ)から、「否定のていねい形」の表をひく。日本語教科書に出てくるのは、表中の太字(イ形容詞以外は左側)の表現だけだ。
〜ません | 〜ないです | |
---|---|---|
動詞語尾 | 食べません | 食べないです |
本動詞 | (鉛筆が)ありません | (鉛筆が)ないです |
(名詞+)ダ | (本)ではありません | (本)ではないです |
(ナ形容詞+)ダ | (静か)ではありません | (静か)ではないです |
イ形容詞 | 大きくありません | 大きくないです |
日本語を教へることを仕事としてゐる自分は、半ば意図的に、そして無意識にも「教科書の日本語」を血肉化してしまつてゐるので、教科書にない表現には敏感になつてゐる。もちろん、これら「教科書にない表現」が間違つた用法だなどと言ひたいのではない。自分も日本語ネイティブと話すときは、「行かないですよ」など表の右側にある言葉が口をついて出てくるし、この小林氏の論文には下のやうに非常に興味深い指摘もある。
64時間分の自然談話データ(『女性のことば・職場編』,『男性のことば・職場編』,『名大会話コーパス』)を観察してみると,イ形容詞だけでなくすべての品詞において,「〜ないです」のほうが多く使われていることがわかった。平均すると約70%が「〜ないです」であり,「〜ません」は約30%に過ぎなかった。(p.38)
つまり、教科書で採用されてゐる表現のほうが、実際の言語使用状況からみると、少数派となつてしまつてゐるわけだ。この資料に続いて、小林氏は「〜ないです」はこれから「積極的に導入、練習するべき文法項目と言える」と主張してゐる。もつともである……。
しかし、教へる必要はあつても、初級の学習者に「練習させる」必要はあるだらうかとも考へてしまつた。といふのは、特に「(名詞が)ありません」と「(名詞が)ないです」はニュアンスに違ひがあると思ふからだ。
これは自分の語感なので、他の人からそんなことはないと反論されれば、すぐに撤回する用意はあるのだが、自分は目上の人に対して「ないです」は使へない。やはり、ぶつきらぼうな感じがする。また、テレビなどで若い人が元気な声で「ないです!」とかいふのを聞くとちよつと能天気な感じもする。
それから、このぶつきらぼうな感じから来ると思うのだが、「本当はあるのだけれど、『ない』と言つておきますよ」といふ含みを持たせた表現は、「ありません」より「ないです」を使ふことが多いのではないか。
上司: 何か、言ひたいことがあるのか。
部下: ないです……。/ありません……。
これは言葉よりも態度や声音の問題になつてしまふかな。何とも言へませんね。
まあ、とにかく、「〜ないです」を教へるべきだといふことには賛成だが、教へ方、練習のし方については慎重に考へなければならないな、と思つてゐたところに読んだのが、冒頭の『異邦人』。
裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。
自分は急いでページをめくり直して、ムルソーが「ないです」または「ありません」と発言した場面が他にないかを探した。裁判の場面の中にひとつ見つけた。
最後に、私に対して、何も付け加えることはないかと尋ねられたので、「何もありません。ただ証人には悪い点がないことを申し上げます。私が彼に煙草をすすめたというのは事実です」と答えた。(p.94)
こちらでは「ありません」を使ひ、最後には「ないです」。自分の読みとしては「ありません」は単純な否定だが、最後の「ないです」には、「あるけど、言はない」もしくは「あるけど……」といつた含みがある表現だと思ふ。これは翻訳者(窪田啓作)の意図的なものなのだろうか。意図的だつたら、すごいと思ふし、無意識だとしても、非常に興味深い。原文のフランス語ではどうなつてゐるのだらうか。
- 作者: 小林ミナ,白川博之,田中真理,井上優,フォード丹羽順子,松崎寛,山内博之,宮谷敦美,由井紀久子,野田尚史
- 出版社/メーカー: くろしお出版
- 発売日: 2005/10/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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