読解授業でなぜ音読するのか?

ネット上で興味深い論文を見つけた。現場の日本語教師を対象に「読解授業で音読を行ふ目的」についてアンケート調査を行ひ、その結果をまとめたもの。
クラス授業で行われる音読に対する教師の目的意識
〜外国人学習者に対する日本語教育現場での調査から〜

おもしろいのは、このアンケートで挙げられた「音読の目的」が、「教師自身が考へる音読のマイナス面」とことごとく対立してゐる点だ。これを見ると、音読に対する教師間の共通認識のなさや無自覚ぶりがよくわかる。実際このアンケートで初めて「音読の目的」を考へた教師も多かつたのではなからうか。
例へば、「音読の目的」として、「理解を深める」が挙げられてゐるのだが、これに対して「マイナス面」には「内容理解が伴わない、読解は本来黙読である」と全く反対の意見が並んでゐる。一体、音読は理解の助けになるのか、邪魔なのか。また、音読を「クラスの活性化、集中させるため」に行ふと答へてゐる教師がゐる一方、「マイナス面」には「時間がかかる、聞く側がだれる」といふ意見がある。
もちろん、効果があるかどうかは、それぞれの「やり方」次第だと考へることもできるのだけれど、論文の筆者の次の推測が妥当だと思ふ。

今回の調査で集められた回答は、現場の教師達の音読に対する単なるイメージに過ぎないのではないか。(中略)教師自らが過去の国語教育や英語教育、或いはその他の外国語教育を受けた際に、教師から音読を指示された経験があり、語学学習では音読をするものだという「常識」が根づいてしまったとも考えられる。

「音読の効果」について参照できるやうな研究があればいいのだが、この論文が書かれた時点(2000年)では特にないやうで、筆者も今後の検証の必要性を説くにとどまつてゐる。

自分の読解のクラスでの音読

以前は、自分も段落ごとに「では、Aさん読んでください」とやつてゐた。恥ずかしながら音読することの意味など考えてもみなかつた。しかし、次第に時間の無駄だと感じるやうになつたのは確か。生徒に音読させても、「音」を再現することばかりに気をとられて、内容のことまで考へる余裕がなささうなのだ。ほとんどの生徒は、音読させた後で内容に関する質問をしても、すぐには答えられず、もう一度黙読の時間が必要になる。二度手間。
音読する際には、どうしても文章を「一本の線」としてたどることなる。しかし、私たちが文章を目で読む時には決してそんな読み方はしてゐない。上手な読み手ほど、瞬時に以前の部分に戻つて確認したり、もつと先の部分のキーワードを目で探したりしながら読み進めてゐるはずだ。ところが、声に出して読むとなると、読み手の意識は一点のみに集中してしまひ、全体の流れ、構成などが見えにくくなる。
といふわけで、自分のクラスでは内容理解が終る前の段階で、授業中にテキスト本文を生徒一人に音読させるといふことは、ほとんどやつてゐない。(難しい漢字が多い場合に、教師が一度音読して読み方をメモさせる、といふ作業はやるが。)
自分が生徒に音読させるのは、テキスト本文の内容説明が終つた後、しかも授業中ではなくクラスの前後(または休憩時間)だ。その課のテキスト本文の中で重要と思われる三、四行程度のかたまり(新出単語単語や重要文型を含む部分)を指定し、それを暗記できるくらゐ何度も音読させる。それも、教師と一緒に読む。教師が一文を読み、続けて生徒に同じ文を読ませる(難しい場合は、文節区切りで)。クラスが始まる前に、早めに教室に来てゐる生徒から一人一人捕まえて、該当箇所を一緒に音読する。また、休憩時間、クラスの最後の時間帯などを利用し、できるだけたくさんの生徒に一人づつ同じ部分を読ませる。できるやうならば、本を見ずに教師の声をリピートさせる。
自分のクラスの場合、音読は内容理解ではなく、暗記するため。教師と共に読むことで、アクセントやイントネーションなども体感してもらへると思ふし、他の生徒達から注目されてゐる状況ではなく、あくまでも教師と一対一といふ感覚でやるので、緊張しがちなタイプの人でも気軽にできるのではないかとも考へてゐる。毎回これを続けてゐると、課が進むにつれて暗記する分量も増えてくるのだが、しつこく繰り返してゐると、完全にとはいかないまでも、かなりの量を記憶してくれる生徒もゐる。同業の方で、おもしろさうだと思つたら、ぜひお試しあれ。
うまくまとめられずに、長くなつてしまつたが、とにかく七月からのクラスでは、音読に限らずクラス活動のいろいろな部分にもつと意識的になれ、自分。