まだ続く……

二時間目(柳瀬陽介先生)実践研究と授業分析について

さて、九十分授業の二時間目は英語教育の柳瀬先生。講義タイトルは「授業分析」となつてゐるものの、台中ではやはり時間が足りず授業のDVDを見るところで終つてしまひました。
ところがですね、今回の研修の中ではこの時間が自分にとつては一番刺激的だつたのです。横溝先生の講義も本当におもしろかつたのですが、以前著書を拝見したこともあつたし、日本語教育といふのは曲がりなりにも自分の専門なわけで、ある意味「想定の範囲内」ではありました。ところが、この二時間目はどんな講義になるのか予想できませんでした。
まづ柳瀬氏の情熱的な話し方にやられました(笑)。最初は物静かな方なのかと思つてゐたのですが、講義が始まると、途端に目がキラキラ輝き出すのです。台湾の映画監督・蔡明亮を思ひ出しました(柳瀬氏のはうが数倍上品ですが)。身振り手振りや表情の作り方がうまくて、知らず知らず話に引き込まれてしまひます。これはできることなら自分も真似したいと思ひました。
そしてもちろん、講義内容も。ネイティブスピーカーではない語学教師として、台湾人の日本語教師の方との共通点を探るところから講義は始まり、「ネイティブの英語」に憧れた御自身の経験、「自分の言葉」ではない英語を教える苦痛といつた話に続きます。(ただ、やはり時間が足りなかつたですね。非常に興味深い内容ながら、駆け足で通りすぎた感じです。)
それで、現在は現場の実践の中から生まれる知恵に注目してゐる、と。(このあたりの講義の進め方はちよつと強引だつたかも。台北や高雄の半分の時間だから仕方ないのだけれど。)
言語コミュニケーションとは、「能力(competence)」と「対応力(capacity)」が合わさつたものであるとの説明。「能力」は「訓練(training)」で伸ばし、「対応力」は「教育(education)」で伸ばすが、先に「能力」をつけるための訓練が必要。野球を例にとり、どんな野球選手だつて、試合を繰り返すだけではうまくならない、キャッチボールやノックなどの基礎トレーニングも必要である、と。
そのトレーニングとして「集中的入出力訓練」が紹介されます。

集中的入出力訓練
定義:入力された言語を、そのままの言語形式で再生出力することを意識的に何度も繰り返す。ただし入力と出力の違い(視覚的、聴覚的)や、タイミング(同時、直後)は問わない(ただし出力はスピーディーに行わなければならない)。入出力の対象となる言語は、意味のつながりのあるテクストであり、この点で、パターンプラクティスとは異なる。
(研修時に配布された資料より)

具体例

  1. リピーティング
  2. シャドウイング
  3. 音読
  4. 朗読
  5. ディクテーション
  6. 音読筆写

このやうな訓練に対しては、「自己表現にかかわつてゐない」「コミュニカティブではない」「創造性がない」などの批判があるものの、「対応力」を養成する前の段階では、かういつた練習も必ず必要である、と。
ここで日本の中学校、高校で行われた研究授業のDVDを見せてもらいました。「集中的入出力訓練」の様々なバリエーションを取り入れた授業。「取り入れた」といふか、これは現場の先生方の工夫の中から生まれてきた練習方法だとのこと。留学経験がない日本人の英語の先生方の授業です。
これがスゴイ! 自分の高校時代の英語の授業とは大違ひ。感動して涙が出さうになりました。実は自分は日本人教師が英語だけで進める授業といふものに(といふことは、同時に台湾人教師が日本語だけでやる授業にもです)、なぜかしら違和感があつたのですが、このDVDを見て考へが変わりました。すばらしかつたです。自分自身の授業を考へてみれば、わかるのですが、その授業のレベルや目標によつて教師からの指示出し方や説明のし方は異なるのです。ですから、全ての授業でネイティブスピーカーのやうにペラペラ話す必要はない。といふか、ネイティブの教師だつて、四六時中しやべつてゐるわけではありません。教師の仕事はしやべることではないのですから。自分も初級のクラスではかなり厳密に語彙コントロールをしてゐるし、絵や実物その他の視覚教材を使ひ、ほとんどしやべらずに授業を進めることもあります。それなのに、「ネイティブスピーカーではない」といふことに対して偏見があつたことに気づかされました。(ただ、これは台湾人の先生方自身にも、そして特に学校側に強くあると思ひます。)
「集中的入出力訓練」の豊富なバリエーションにも驚きました。学習者を飽きさせないやうに、基本は易しい練習から難しいものへ。その中で自分が初めて聞いたのは”Read & Look up”といふ練習法(教師がテキストを読んでゐ時は、学習者はテキストを見ているが、学習者がそれを再生する時には顔を上げてテキストを見ずに再生する)。これは自分のクラスでも使つてみたい。ただ、どの方法にしても、それさへやればいいといふものではなく、それぞれのクラスに応じたアレンジと、メニューの組み方が大事である、とのこと。肝に銘じます。
とにかく、生徒が楽しさうなのが素晴らしい。そしてみんな発音がきれい。自分もこんなクラスで学びたかつたなあと思ふことしきりでした。練習にリズムボックスを使つたり、朗読の時にBGMを流すなどの工夫もおもしろかつたです。そして、かうした「機械的な訓練」の繰り返しにもかかわらず、最終的には「感情をのせた表現」ができるやうになつてゐるのです。最後の朗読の時間は感動的でありました。みんな上手すぎです。
ただ残念ながら、この後予定されてゐたであらう「授業分析」の時間はなし。これは自分で考へます。
【追記】
この研修会の最後に、グループでこの日の感想などを語り合う時間があつたのですが、その時、台湾人の先生から二時間目に見た英語の授業に対して「うまく言へないけど、ちよつと気持ちが悪い」といふ意見が出ました。自分はただただ感動してゐただけだつたので、最初は意外に思つたのですが、この先生の話を聞いてみると、納得できる部分もあります。「機械的な練習で、ネイティブスピーカーのやうな発音ができるアジア人をつくる」「何か『変なモノ』をつくつてしまつてゐるやうな気がする」と。
最後の質問の時間に柳瀬先生にこのコメントをぶつけてみたところ、以下のやうなコメントをいただきました。(この部分、メモできなかつたので、正確ではありません。柳瀬先生の言葉といふより、自分はだいたいこのやうに理解したといふ意味で書きのこしておきます。)

確かにさういふ「迷ひ」は当然あると思ひます。しかし、あのクラスの中学生・高校生はネイティブの発音をただ真似してゐるといふだけではなく、英語を自分自身のものとして、英語を使つて自己を表現するといふことができているのではないでせうか。今日は時間がなくて、授業の一部しか見ることができなかつたのですが、あの教室の先生がいつも強調されてゐるのは、「自分自身でゐろ」といふことです。英語を学ぶからといつて、アメリカ人になる必要はない。学んだ英語を自分の一部として吸収し、自分が更に成長すると考へてはどうでせうか。

柳瀬陽介先生のサイト