キュー出し職人

初級の日本語のクラスでは、教師が「教へる」ことは、それほど多くない。それよりも、日本語教師の仕事として大切なのは学習者の発話を促す適切な「キュー」を出してあげること。
経験の浅い(といふか、授業の準備をしない)教師の授業でときをり見かけるのだけれど、ある文型の意味を媒介語で説明した後、いきなり「では、この文型を使つて例文を作つてください。はい、陳さん、どうぞ」と学習者に丸なげしてしまふ人がゐる。自分が学習者の立場になつてみればわかると思ふが、これは相当ストレスがかかる。また、日本語の語彙が少ない時に例文を考へようとすると、どうしても母語で考へてそれを日本語に変換することになる。結果、出てくる例文は日本語の文としては不自然なものが多くなる。さらに、どうしてそれが「不自然」なのかを説明するのに余計な時間を使ふことにもなる。
自分は初級の授業ではできるかぎり「キュー出し職人」に徹しようと思つてゐる。それには準備(教案&教材)が必要。授業の段取りや使ふ例文などをできるだけ詳しく書き起こしておく。いくら日本人だといつても、その場の思ひつきで次から次に例文が口をついて出てくるはずがない。(授業の準備だなんて、何をそんな当然のことを、と思はれる方もいらつしやるかもしれませんが、全く準備をしない人(自信過剰?)、どんな準備をすればいいのかわからないといふやうな人がたくさんゐるのです。恐ろしいことに。)
例へば、『みんなの日本語』第44課では、「連用形(ます形)+すぎます」といふ複合動詞を扱ふ。ドリルの流れとしては下のやうな感じ。

  1. 動詞レベルでの変換練習。動詞の絵カードを見せ、「すぎます」をつける練習。絵カードの準備。以降の練習で使ふ動詞を選んでおく。
  2. 文の後件を考へる練習。上の絵カードをもう一度見せながら、「食べすぎると……、どうなりますか」と、その後の変化を言つてもらふ。「食べすぎると、おなかが痛くなります(なつてしまひます)」等。その際、生徒の顔を思ひ浮かべながら、「お酒」はこの人、「マージャン」はこの人と、生徒に合つた(?)例文を考へておく。この段階で多くの文を作る。
  3. 状況説明の練習。生徒一人一人に「食べる・おなかが痛い」などと書いた紙を渡しておき、「おなかが痛い」ジェスチャーをしてもらふ。隣の生徒に「どうしたんですか?」と質問させ、「食べすぎて、おなかが痛いんです」「それはいけませんね。お大事に」といつた短い会話を作る。

上のドリルの中で使ふ(使ふ可能性がある)例文を全て教案に書いておくことが大事(提出順にも留意)。これがあると、どれだけ授業の流れがスムーズになることか。最後に、生徒自身の「何かをしすぎた」経験を話してもらひ、まとめる。
初級の授業で大事なのは、教師が一方的に「教へる」ことではなく、多様なドリルをこなし、文型なり単語なりを定着させること。そのドリルのキュー出しこそが教師の仕事。そして、そのドリルにしても、パターンはある程度決まつてゐるのだ。独創的なアイデアが入る余地はあまりない。しかし、各種ドリルをそのクラスに合わせてアレンジし、過不足なく行ふのはやはり難しい。いつ、どんなクラスでも、それができるやうな「キュー出し職人」にわたしはなりたい。