もののあわれ

本居宣長の「もののあわれ」について調べている。文学史のテキストの記述では全くわからないからだ。少なくとも台湾人の大学生にはわからないだろうし、自分も理解できません。

従来、儒教・仏教の功利的・教戒的文学観によって説かれていた物語観を否定し、『源氏物語』を例証として、その本質が“もののあはれ”にふれた時に生じる調和的情趣の世界)にあるとする文学論。

『原色シグマ新日本文学史』(文英堂)

それで、自分の本棚から『日本語について』(大野晋)を取り出して拾い読み。確か本居宣長についての記述があったはず。

源氏物語』は、なにも世間で生きるための実用性のある知恵を教えるものでもなければ、役に立つ教訓をたれようとするものでもない。男と女の感情を人間の根底的に重要な事実と認め、男と女がそれを求めて動くさまを書いたものだ。そう読むのがあの書物の読み方なのだということを、本居宣長は『紫文要領』という文章の中に書いている。

『日本語について』大野晋 ISBN:400260201X

ほぼ同じ内容が書いてあると思われる箇所を発見。格段にわかりやすい。なるほど、と思う。今度はGoogleで検索してみる。

人間の魂の根底から発せられる、やむにやまれぬ感動が「もののあはれ」であり、それは理性的な論理、たとえば儒教や仏教などの道理では律しきれない魂の感動である。
源氏物語』の光源氏藤壺の恋が、不義悪行であると知りつつも、そこに心を動かさざるをえないところに「もののあはれ」の典型が見られる。そして、そのような「もののあはれ」を知る人間を描いてみせているところに、『源氏物語』の本質があるのである。

これもいい。なんとなく「もののあはれ」の輪郭はつかめたような気がする。あとは『光源氏の物語』(大野晋丸谷才一)を読み返して、生徒に話してやれるようなネタを探そう。昔この本を読んだ直後に、岩波文庫版の『源氏物語』も買ったんだが、とても原文では読めなくて投げ出したまま。こんな人間が文学史の授業をしていいものだろうか・・・。いくらしつこく頼まれたからといっても、専門外のことに手を出すのは止めたほうがよかったかも。(と書きつつも、心の中ではこうやって勉強できるのを楽しんでる部分もあるんですが。なんにしろ、少しでも生徒の助けになるような授業にしなくては。)