「よろしかつたでせうか」の「タ」

上に「よかつた」と書いたついでに、例の「よろしかつたでせうか」について最近考へたことをメモ。ただし、自分は日本を離れてもう十年以上になり、実際にこの表現を耳にしたことはありません。「絵文録ことのは」にこの件について詳細にまとめられてゐる記事があつたので、参考させていただきました。

実は自分の結論も「ことのは」の松永さんとほぼ同じになるのですが、自分は助動詞「タ」の意味を少し考へてみました。


「よろしかつたでせうか」が問題にされる理由の一つは「どうして過去形を使う必要があるのか」といふ点だらう(『問題な日本語』に掲載されてゐる質問など id:tinuyama:20050222)。しかし、「タ」には「過去」や「完了」以外の用法もあるのだ。
寺村秀雄は『日本語のシンタクスと意味2*1』の中で、「過去(テンス)」「完了(アスペクト)」に加へて、「話し手の心的状態の反映(ムード)」に関する「タ」を挙げ、六つに分類してゐる。この問題に関係ありさうなのは、次の用法か*2

(3)忘れていた過去の認識を思い出す
 ・今晩の会は何時からだつた?
(5)(過去の)期待の実現を表す
 ・ここに切手があつた。
 ・やつぱり彼が犯人だつた。

目の前に切手が「ある」場合でも、探してゐて見つけた場合には「あつた!」と言ふわけで、「タ」は過去を表すだけではないのだ。
絵文録ことのは」の松永さんは、店員が頭の中で「これでよかつたつけ?」と過去の注文(記憶)を確認しながら発言するためではないかと書かれてゐるが、これは寺村の分類では(3)にあたるだらう。
それから、次になぜ助動詞「タ」にこれほどいろいろな用法があるのかといふことを考へてゐて、古典語の「ケリ」に思ひあたつた。『日本語相談(五)*3』の中に、古典語の助動詞「キ」「ケリ」「リ」「ツ」「ヌ」「タリ」が江戸時代までに次第に消えたり吸収されたりして、「タリ」だけが残り、その後、現代語の「タ」になつたとある。回答者は大野晋。この「ケリ」の用法を同じく大野晋の『古典文法質問箱』から引く。

「花咲きにけり」というのは、いつからかはっきりしないが、花が咲いているということが、確実に今、自分の意識の範囲に入った、つまり見て気がついた、今まですでにそうなっていた事実を、自分が今はっきり意識にのぼせたということです。
『古典文法質問箱』大野晋*4(P.156)

客観的な「過去」を表すのではなく、話し手がその時点で発見したり、印象を新たにしたりした場合などに使ふ、と。そして、この「ケリ」の用法は、上に挙げた寺村の(3)と(6)を含むのではないだらうか。また、自分の日記に書いた「今日はクラスがなくて、よかった(テレビを見ることができるので。発話時点はテレビを見る前)」といふ場合、寺村の分類には納まらない(「確認」でも「期待」でもない)が、もつと広く「その時点で気づいた」と説明すればいいのだ。「タ」には「気づきのケリ」の名残りがある。
「ご注文は以上でよろしかつたでせうか」と発言する人は、「今、この時点で気づいたのだけれど」「今意識にのぼつたのだけれど」という気持ちから、「これでよかつたのか?」といふ自問があり、それをそのまま相手(客)に確認しようとして「丁寧な形」に言い換へてゐるのではないか。このあたりは松永さんの説と同じになるのだが、客側から見れば「今ごろ気づくなよ。それがお前の仕事だらう」と。
もう一つ同じやうな形の文を挙げてみる。これも上記の「ことのは」の記事の中に引用されてゐたもの。
「このプレゼント、いやだつた?」
この文も「その時点での気づき」の用法と言つてよいと思ふ。プレゼントを用意して渡すまではそんなこと考へてもみなかつたのだが、いざ渡してみた(相手の反応をみた)瞬間に意識にのぼつたこととして、「いやだつた?」と「タ」が使はれてゐる。この場合、プレゼントを渡すのは好意からであり、たまたま相手の好みとは違ふものを選んでしまつたといふこともあり得るし、二人の関係が「今ごろ気づいた」ことを許せる間柄であれば、問題ない。「このプレゼント、お嫌いでしたでせうか……」と美しい女性に猫撫で声で聞かれれば、まあ許す。初めから正確な仕事を期待されてゐる店員とは違ふのだ。
同様に、親しい友人であれば、「これ、まづかつたかな?」と言へるかもしれないが、仕事上のお客に対して「これ、よくなかつたでせうか……」などと言へば、「今になつて、何を言つてるんだ!」と怒らせてしまふことになるだらう。


まとめると、「タ」には「今気づいた」といふ意味もあるが、これを確認として相手に質問する場合には、両者の関係を考へなければならない。「今気づいた」といふことが愛嬌になる場合もあれば、無能と見なされることもある、と。
見当違ひなことを書いてゐるかもしれませんが、何かご意見、ご指摘などありましたら、遠慮なくお願ひいたします。

*1:ISBN:4874240038

*2:引用したもの以外には、「薬を飲んだはうがいい」「さあ、買つた、買つた」等

*3:ISBN:4022565012

*4:ISBN:4043260024