主題の統一

このところの作文添削から気づいた点をメモ。その一。
台湾人学習者が書いてくる日本語の文章を読んでゐて、非常にぎくしやくした感じを受ける理由の一つは、主題の統一がないからではないかと思つた。主題と云つても、文章全体のテーマと云ふ意味ではなくて、段落単位での「は」の使ひ方だ。簡単な例を挙げてみる。下は台湾人学習者の作文の一部。

「自己紹介」
私は陳○○と申します。○年○月○日に台北に生まれました。私の家族は私を入れて、四人です。妹が一人います。両親の子供に対する教育方法は、自分の好きなことや科目を自分の力で勉強して、独立心を養わせるということです。

文法的な誤りはほとんどなく、よく書けてゐるはうだとは思ふ。が、やはり不自然な感じがする。原因は「は」ではなからうか。この短い引用中に、「私は」「私の家族は」「教育方法は」と三つも「は」が使はれてゐる。この頻出する「は」によつて、文章が寸断され、流れが生まれない。
上記の文章を以下のやうに直してみる。

私は陳○○です。○年○月○日に台北に生まれました。(私は)四人家族の長男で、(私には)妹が一人います。(私は)独立心を重視する両親の教育方針のもと、幼い頃から自分で自分の好きなことを見つけ、独力で勉強するようにと育てられました。

最後の文は他にも直しやうがあるとは思ふが、この部分全体を「私は」で統一することで、かなり「自然さ」が増すやうな気がしないだらうか(もちろん括弧内の「私は」は書かない)。日本語の呼吸といふか、自然な流れとして、意味的にまとまりがある塊は、主題を統一すると云ふことがあると思ふ。一度「は」で主題を提示した後は、その「係り」を意識しながら、文を加へていく。つまり「は」を多用しない。次に「は」が出てくるのは、その「係り」が弱くなつた時か、新しい主題に受け渡す時。この受け渡しがうまくいくと、文章に流れが生まれるのではなからうか。
受動態(受身)などの格の変化も、この主題の統一にからめて教へればいいのではないか。